悩みの中に宝物がある.1
この課題をいただいてから、ずっと考えていましたが、今まだ答えが出ません。ですが心に少し変化がありました。
私は中学の時、9対1でいじめられました。集団で執拗にいじめられ、辛い学校生活でした。
「私に何の落ち度があり、彼らに何の権利があってあのような仕打ちができるのか」が分かりません。この課題で、私はどんな宝物を得たのでしょうか。
考えていくと、始めは相手への悪感情ばかり出てきました。
少し前に、その9人の中の1人からフェイスブックで友達申請が来ましたが無視しました。「あんだけ沢山の人をいじめたのに、よく申請できるな!」という第1印象でした。それは、人をさんざん苦しめておいて、詫びもせず厚かましくも友達のふりをして寄ってくるのが許せませんでした。
いつも泣いていた自分を思い出しました。辛く、苦しく、そして逃げ場の無い悲しみや怒りの感情が止めども無く押し寄せてきたのでした。さらにいじめは高校生なってもありました。
そんな嫌な思い出も、今回与えられた課題なので、湧き出る悪感情に負けず考え続けていたら「自分はなんて嫌な人間だろう」という気持ちになりました。
それはこのときの体験が、私の人格形成に深く影響し、後に対人関係で抜きがたい欠点として作用していたからです。
自分の行動を観察して「私は、陰で口先で人を攻撃して・・・、でも小心者で、その人の前だと口を閉ざす。本当に嫌な人間だ・・・」と自己嫌悪に落ち込みました。
このような一連の行動は、攻撃することによって自分を守っていたのでしょう。
さらに思いをいじめっ子たちに馳せると「私が自分を守るなら、相手もまた自分たちを守っていたのかも知れない、私が『自分は被害者だ』と思っていたならば、相手もまた『自分たちは被害者だ』と思っていたかも知れない」という考えに至りました。
かつての断片的な記憶で推理すると
「このいじめっ子たち9人も、上級生に同じようにいじめられ、心の中で『やられた分、次に誰かにやり返して、何かを取り戻したい』という気持ちだったのかも知れない・・・」と思いました。
ここまできて相手のことを「気の毒だ、なんか可哀想だ」と思えました。いじめられっ子がいじめっ子に同情する不思議な感覚でした。
悩みの中に宝物は少しあったように思います。
相手の立場を少しだけ考えられるようになったこと、自分の嫌なことも第3者的な立場で見られるようになったことです。
合掌